「南極観測隊初期のアマチュア無線運用状況」
8J1RL以前に南極からオンエアしていた日本人局

  南極昭和基地の誕生は、この南極情報ページのトップにも記載しているように、1956年(昭和31年)にさかのぼります。この年の11月、「宗谷」が初めて南極をめざし出発、厚い氷にはばまれながらもなんとか翌1957年1月に南極大陸に到着します。そして、観測隊員はオングル島に上陸、そこでできたのが「昭和基地」でした。(この初代南極観測船=確か当時は砕氷船とも言っていました=宗谷は、東京・お台場の「船の科学館」で屋外展示されていますので当時のままの姿を見ることができます)
1956年12月号CQ誌の表紙   この第1次南極観測隊には、朝日新聞社の社員で通信担当として作間敏夫氏/JA1JGが加わっていました。その作間氏は、1926年(大正15)生まれ。現在も東京・杉並にお住いで、当時の様子を原稿にしていただきました。すぐ下のコラム(枠内)をご覧ください。 Mni tks to JA1JG
 写真右は、作間氏の出航を見送るハム仲間=CQ誌1956年12月号表紙=。CQ誌の説明によれば「さる11月8日、東京港晴海埠頭から南極観測船「宗谷」が、観測隊員53名を乗せて出港した。この日、JA1JGこと作間敏夫氏も観測隊員のひとりとして勇躍南極への晴れの首途に向かったが、西武クラブの雄志はハム仲間として盛大な見送りを行うべく、それぞれポータブル・トランシーバーと共に晴海埠頭に集結、乱れ飛ぶ別れのテープの中にホイップアンテナを林立させて歓送陣の人気をさらった。これはその時のひとこま。左からJA1AWT(調整中)、トランシーバーをかついだJA1BBO、その右JA1AH、その向こうJA1AHC」とあります。
■はじめに
 私が南極観測(探検)越冬候補者の一人となった時、朝日本社員の一人だったので、最初は写真を撮ったり記事を書いたりするのが仕事と思っていた。それが、通信!!、しかも「モールス符号」を使っての無線通信と知った時の驚きとショックは大きなものだった。何故なら、無線通信士として正規の教育と、通信工学を修めて(現在の電通大にて)、無線通信士と無線技術士の資格は持っていたものの、朝日新聞社では編集局に入り、当初一年間は校閲部で記事原稿の直しをやり、その後も局内の各部を回ったが、モールス信号を使う電信の仕事は全くしたことがなかったからである。

■越冬隊員として
□私が昭和基地に足を踏み入れたのは、昭和32年1月19日で、岩石だらけの岩場で国旗掲揚が行われ、永田隊長から昭和基地と命名された時である。

□昭和基地から日本と最初のハム通信を行ったのは、昭和32年6月15日夜から6月16日にかけてで、JA1JG/ANTというコールサインで電信でCQを出した。日本からは待ち構えていたのだろう何十局とも思われる返信が殺到してきた。そのため、感度は相当良かったものの、ひどい混信ぶりで仲々判別できない。その中で、やっとJA1DOがききとれ、すぐ交信が始まった。
 彼は東京の小石久太郎さん(東芝勤務)だった。基地周辺の「気象状況やペンギンやアザラシの様子など・・・・・」話がはずんだ。二番目の日本人ハムの相手は、偶然にもJA3AAAの福田弘さん(大阪時代の私の友人だが、すでに故人)だった。ブリザードや犬たちの状況を伝え、大阪の近況を聞いたりして、なつかしかった。

 連日、多数のハム達と交信を続けたが、女性ハムとの交信はやはり一際楽しく、トンツーの信号に性別はないものの心なしかなまめかしく聞こえ、お色気を感じた。東京のJA1MP(長谷川さん)とは、感度の良いときを選んで内地の世相や、基地の周辺のブリザードの様子などを電話で話しあった。長谷川さんに赤チャンが誕生した時、基地からハム電話を通じて、「ユキコ」チャンと名付けられ、益々親しくなった。
 基地のハム設備は、送信機がBC610、400W、A1、A3電波が発信できた。受信機は通称スーパープロ2台でよく受信できた。電波状態のよい時は、国内ラジオを聴いているようで、基地は孤独ではなく、世界中の人々に連なっている感動がヒシヒシと胸に伝わってきた。

□私は大阪朝日時代は、ハムをしていなかった。通信担当と決まってから、主送信機のモールス通信のみではもの足らず、電話による交信で、広く世界の人々(特に日本の方々)に、基地の森羅万象をことごとくお伝えしたかったからです。早速ハム局の申請を行いJA1JGのコールをいただいたわけです。

□QSLカードについて。私が自分で撮影した氷山風景をカラーのQSLカードにして、昭和基地からハム交信した相手局へ、その時の交信状況を記して多数(1000局位か)送った。仲々美しい絵柄と思っている。

□越冬中、通信の空き時間に、くさりに繋がれているカラフト犬たちを愛撫に行った。傍へ行って頭や背中を撫でてやると、60キロもある大きな犬たちが、嬉しがって私の手をペロペロなめてくれた。タロ・ジロも大層私になついてくれた。私の動物好きが判るらしかった。ネコの「タケシ」は、私を親と思っていたようだった。オングル島(昭和基地)をよく散歩したが、必ず私の後をついてきて、2キロでも3キロでも離れなかった。夜中に、私の寝床(寝袋)の腹の上に乗ってきて寝るので、目がさめた記憶がマザマザとしている。タケシが送信機内で感電して大ケガをした時、必死で看病して持ち直してくれた時は、本当に嬉しく、自分の子供のような気がした。

第一次南極観測隊員 作間敏夫
平成18年1月

JA1JG局 プロフィール
・1926年(大正15)生まれ、東京都杉並区在住
・1950年(昭和25) 朝日新聞社に入社
・1956年(昭和31) 第一次南極観測隊に参加
・1957年(昭和32) 昭和基地にて日本人初の南極からアマチュア局を運用
・2001年(平成13)および2004年(平成16) NHKテレビ「プロジェクトX」に出演



  その後、第3次観測隊では8J1AA(高室功氏)、第4次では8J1AB(榎本沛元氏)と8J1AC(佐藤和郎氏)、第5次では8J1AD(西部暢一氏)と、個人のコールサインによる運用が行われました。その後、第7次の際にはJARLとして 8J1RLの免許を取得、それ以降はすべて個人コールではなく8J1RLや8J1RM、8J1RFから運用されることになります。

  当時のQSLカードを下に掲載しました(画像をクリックすると拡大します)。これらのカードを含め、左フレームの「QSLカード」に一覧として掲載してあります。また、下表は、第1次観測隊から第17次観測隊までの運用概況をまとめたものです。
(資料の収集・とりまとめは、JA7ZN目黒時雄氏(18次隊)によるものです。カードについては、作間敏夫氏(1次隊)、西部暢一氏(5・7・9次隊)、深川佑允氏(7次隊)、増田博氏(9次隊)、福島勲氏(11次隊)、川畑定生氏(12次隊)、西蔭英志氏(14次隊)、山田政男氏(17次隊)から提供をうけました。Vy TKS。
 2006.3.6 update


JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード 8J1AA局のQSLカード
日本人で初めて南極から電波を出したJA1JG局 左のカード裏面。昭和33年1月30日昭和基地の消印 JA1JG局のマリタイムモービルのカード 南極での個人コールで初の8Jプリフィックス(3次隊)
8J1ABと8J1AC両局のQSLカード JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード
8J1AAに続き、8J1ABと8J1ACが発給された(4次隊) さらに、8J1ADも(5次隊)  初の社団局8J1RLの誕生!(7次隊)  (9次隊)
JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード JA1JG局のQSLカード
 (11次隊)  (13次隊)  (14次隊)  (15次隊)
JA1JG局のQSLカード
 (16次隊)




8J1RL運用概況調査表(南極観測前期)
by JA7ZN(18次隊員:目黒氏)    平成18年1月
隊次 コールサイン 主な送信設備 受信設備 運用者(主) 運用者の感想 現況
1 1957年 JA1JG BC-610 S.PRO600 作間敏夫 ・交信局は数百局です(作間)  
  (S32)            
2 1958年  1957年10月第2次観測隊は南極をめざし日本を出発したが、厚い氷のため昭和基地を目前に接岸を断念。1年間越冬した第1次隊員は飛行機で迎えることができた。しかし、樺太犬15頭は南極にやむなく残す結果となった。
  (S33)
3 1959年 8J1AA     高室 功(故)    
  (S34)            
4 1960年 8J1AB BC-610 S.PRO600 榎本沛元(故) ・榎本と私で100局程交信する  
  (S35) 8J1AC     佐藤和郎  ことができました(佐藤) JA2KS
5 1961年 8J1AD BC-610 Anritsu 西部暢一 ・とにかく多忙でしたが、150局程  
  (S36)      19tubes    交信できました(西部)  
6 1962年  1962年は越冬観測はなし。その後4年間は南極観測は中断となった。
  (S37)
7 1966年 8J1RL FL100B NRD-1 深川佑允 ・私だけの運用となりま  
  (S41)       佐藤和郎  した(深川) JA2KS
8 1967年 8J1RL     宮原三郎 ・基地業務に多忙でした(宮原)  
  (S42)            
9 1968年 8J1RL FL100B NRD-1 西部暢一 ・昭和基地のハム運用は私一人  
  (S43)   FL50B、FT100   増田 博  でした(増田)  
      PANASKYmark6     ・旅行隊の交信はほとんど南極点  
      KWM2      から電信でやった(西部)  
10 1969年 8J1RL TS510   沖吉 浩 ・3名の運用で320局になった  
  (S44)       小元久仁夫  (沖吉) JA7AFP
          徳田 進    
11 1970年 8J1RL FL100B NRD-1 福島 勲 ・大阪万博会場と交信した(福島) JH1AXV
  (S45)   FL50B、FT100     ・11次隊のハム運用は私一人で  
      PANASKYmark6.      した(福島)  
      FT400        
12 1971年 8J1RL     川畑定生 ・残念ながら12次のカ-ドは発行  
  (S46)          しなかったと思います(川畑)  
13 1972年 8J1RL FL100B NRD-1 森口 浩(故)    
  (S47)   FL50B、FT400        
      PANASKYmark6        
      TS511        
14 1973年 8J1RL TS900, FT400 NRD-1 松田純夫 ・私自身の運用は100局程かな JA1OQG
  (S48)   PANASKYmark6   西蔭英志  (西蔭)  
      TR7200   小元久仁夫   JA7AFP
15 1974年 8J1RL TS900, FT400,. NRD-1 湊 喜美夫 ・運用者は山崎さんと私の2名で JS1XCY
  (S49)   PANASKYmark6,   山崎一郎  した(湊)  
      TS511, SS721C        
16 1975年 8J1RL TS900, FT400 NRD-1 高岡哲夫 ・太陽黒点周期の最悪の年でし JA9ATR
  (S50)          た(高岡)  
17 1976年 8J1RL TS900, TS700   芳野赳夫 ・1000局程やりました。また、南 JA1XF
  (S51)       吉沢仁章  極初のハム衛星交信(昭和基地  
          加藤芳夫  /南ア)となった(吉沢)  
・各隊の通信担当者へ問合せして、情報を収集。
・表中の「年」は、主に南極にいた年号を表示。
・表中の「運用者」は、昭和基地のアマチュア無線局を主に運用した方を記載(敬称略)。
   お名前の後の(故)は、故人。
・表中の「現況」は、現在もアマチュア無線にアクティブな方。
協力:国立極地研究所